「認知症でも、家で生きて、家で死ぬこと」
長年、家族同士、懇意にしている、私の友達のお母さんが、認知症になったと母から聞きました。
時間の感覚がずれて、昼間の誰も家にいない時にお風呂に入ろうとしたり、
足が悪いのに一人で移動してしまうこともある。
「このままだと、頭を打って死んでしまうんじゃないか」
「施設に入れなきゃいけないんじゃないか」
家族みんなが、どうにかしたいという思いと、本人が頑なに介護サービスや入所を拒否するのでどうしていいかわからない不安でいっぱいだ。
お嫁さんも慌ててるし、私の母も「どうしたらいいのか」と言う。
でも、私は思う。
それは本当に「大変なこと」なのだろうか。
たとえ自宅で転んで死んだとして、それがどうして、そんなに悪いことなのか。
実際、その人の夫はこう言った。
「もし転んで死んだとしても、しょうがねえよ」
その言葉に対して、「なんて無責任な」と責める声もあるけれど、
私はそこに愛情と覚悟を感じた。
「しょうがねえよ」って、突き放しているように聞こえるけど、
それは“どんな結果でも、まるごと受け止めるよ”という気持ちなんじゃないか。
私たちはいつの間にか、「死」を避けるべきもの、「自然な死」はいけないこと、
そういう社会の空気の中で生きてしまっている。
「死んだ祖母を子どもが見つけたらトラウマになる!」という不安もあるようだ。それは、大人でも起きることでちゃんとケアしなかったからそうなるということだ。陰は陽に転ずるのだから、私はその体験が祖母の側から見たら幸せだと思う。「見つけてくれてありがとう」と言うと思う。
死ぬこと自体は、悪ではない。
施設でなくても、病院でなくても、
その人が住み慣れた家で、大切な人と一緒にいられるなら、
たとえ少し危うくても、その暮らしを尊重することができたら、
それはとても豊かで、温かい最期なんじゃないか。
もちろん、「孤独死」は悲しいし、家族もつらい。
だけど「一人で死ぬ」ことが、即「かわいそう」や「問題」になる社会って、
本当に自然なのかな。
自然の動物たちは、自分の死期を悟って、群れから離れてひっそり死んでいく。
人間もまた、本当はそれに似た本能や知恵を持っているのかもしれない。
死に方には、たくさんのかたちがあっていい。
どれが正しくて、どれが間違ってるなんて、誰にも言えない。
私は、
その人が一緒にいたい人と、愛とともにいられること。
最後まで、自分らしく、自由に暮らすこと。
それこそが、命を大切にするってことなんじゃないかな。
皆さんはどう思いますか🌿